コロナが変化を加速するというテーマで多くの素晴らしい識者の見解が発表されるたびに開眼することが多い。中世のペストが加速した変化に対する洞察は、アフターコロナを思いは駆け巡る。

ペストから学びを得たいと思う

昨年カミユの「ペスト」がベストセラーになった時期があった。パンデミックの歴史を知りたいなら石弘之氏の「感染症の世界史」を読んだ方がいいと思うが、アマゾンでの検索や推薦システム(協調フィルタリング?)で上位に出現するからか、何故かカミユの「ペスト」だ。「ペスト」のアマゾンの書評をコロナ禍が認知され始める前後で比較すると当然興味深い。コロナ前は、どちらかというと、「ペスト」という厄災を題材にした、ナチズム、全体主義への批判という視点で読まれている。しかし、コロナ以降の書評は、ペストも全体主義も、同じように人間に降りかかる災難のように読まれていたように感じた。日本の読者の優しさを感じるが、私はこれら要因を天災と人災は分けたいと思う。ウィルスの発生はコントロールできなかったかもしれないが、ナチスの全体主義は人災、今回のパンデミックも中国や各国政府の人災だし、日本の現在のワクチン劣後は、組織的人災だ。

このように、事実や記述の理解というのは、直近の身辺の現象に左右される。だからこそ、大きなが流れで何が起こったかストーリーは好奇心をくすぐる。そもそも歴史分析は属人的解釈の多様性という普遍的な難しさもあるが、歴史を分析することに将来予測のヒントを見つけたいと思うことは世の常だ。

パンデミックは歴史上数多く確認されているが、ペスト、特にペスト第2次パンデミック引用されるかが何故引用されるかだが、記録の適度さと、逸話が多いからだろう。

ペストは、諸説があるが、いわゆる第2次パンデミックとされるヨーロッパの大流行のきっかけは、1346年にタタール人(モンゴル軍)が黒海クリミア半島にある都市カファ(現在は人気避暑観光地フェオドシヤ)を攻略する際に、ペストに罹患した自軍の死体を投石器で投げ入れたことに始まるとも、侵攻軍の荷駄が持ち込んだ野鼠が原因とも言われている。モンゴル軍は、会戦型の騎馬射撃戦は得意だが、城郭攻略においてはあまり戦力的優位性はないので攻めあぐねた。そんななかで、中国雲南ないし中央アジアを起源とも推測されるペストが軍内に蔓延していた。当時、カーファを植民地化し城郭に立て籠もっていたのはジュノヴァ人であったが、城内でもペストが急速に蔓延し、ジュノヴァ人はペスト菌と共にイタリアにガレー船で逃げ帰ったことが発火点となり、ヨーロッパでの大流行の契機となったと言われている。このパンデミックは2年でヨーロッパ全体に広まり、地域の人口の三分の一、少なくとも2000万人の命を奪い、1300年当時の人口に復活するのに、17世紀半ばまでかかったと言われている。当時、14世紀前半、ヨーロッパでは夏季の低温で飢饉が頻発し、戦乱も続発、地震等の天災も続発したことが拍車をかけたことも否めない。ペストは農奴や都市民の下層階級に対して猛威をふるったが、各国の王侯貴族、芸術家、歴史家、宗教者にも襲い掛かり、容赦なく社会変化を加速させた。

当然、社会の劇的な変化の引き金となった。大幅な人口減少のため、相対的に土地が余剰の状態になった。土地が余剰になると土地の価値は、労働価値に対して低下した。耕す人がいなくなった土地が余り、労働力不足のために実質賃金が上昇したのである。ペストの起点となったイタリアは封建制が元来強くなかったので、農民はよりよい土地に移動したり、都市部へ流入する者も多く、都市化も加速。都市化とともに、商工業が発達し、貨幣経済の浸透にもつながった。より生産性の高い土地に移動した農民も、単位あたり農業生産高が向上したことにより、生活水準の改善を享受した。西ヨーロッパでは、領主は農民の待遇を向上させる必要があり、農奴が不自由な身分から解放されるようになり、火砲が発明されて戦術と騎士道に対する価値観が変化し、諸侯、騎士等の封建領主が没落し、結果として封建荘園制が崩壊した。当時、減退しつつも絶対的な権威を保持していたローマ教皇は、十字軍の失敗に加え、ペストパンデミックに対する教皇の無力さも皆の知るところとなり、その権威が失墜。これらが、中世まで庶民の考え方を抑圧してきた根源である封建制度と教会の権威が瓦解し、人間が自由と解放を意識するようになり、芸術、科学が進化するルネサンスが加速されることになった。続いて15世紀に入り、活版印刷が発明普及され、聖書の伝道者である聖職者の地位が低下。レオ10世の免罪符連発等の失策もあり、後のキリスト教の未来を大きく左右することになる宗教改革につながった。

コロナ禍で、我々の眼前で加速されている変化は、個人レベル、企業レベル、業界レベル、社会レベル、国際関係レベルの変化まで容易に感じることができる。切り口を変えると、個人と企業、社会との関係、企業と外交の関係等、それまで緩やかな変化しか認識できなかったことが、より短い時間軸で具体感をもって感じることができるようになった。正に、ペストの猛威のなかで、教皇、領主、騎士、農奴が認知した変化と同様である。現在は、時間の進みがはるかに速く、敏感に知覚する媒体が多いだけだ。現代人が特に知覚に鋭敏になったのは、人的接触が減少することで、移動時間の減少したり、在宅時間や増えたり、メディアを利用する時間が増加したりしたことで、我々自身も「変化」の報に触れる機会割合が激増したことによるかもしれない。

主題において、ほとんどの識者が指摘するデジタル化の加速はすべてにレベル、切り口で変化の加速が実感されている。コロナ前からも急速に進んでいたCtoC、BtoB、BtoCのデジタル化は、複雑になり指数関数的に加速されている。そもそもコロナ前から、あらゆるテクノロジーが相互に指数関数的に加速されていたので、コロナによって爆速に加速された。この爆速への加速は個人と企業、社会との関係を大きく変質させて、関連分野にも大きく影響を及ぼし続けている。デジタル化による具体的な産業変化は、既に多くの有識者が分析公表しているのでここでは詳説しないが、そのなかでもリモートワークは多く変化の契機となった顕著な行動様式で、副業の加速等を含めば、農奴解放と封建領主性の崩壊とも言えるかもしれない。業態にもよるが、当初はデジタル化の実証実験的な雰囲気があった存在が、今や必要不可欠な業務形態、プロセスになってきた。まともな組織なら、効率も下がるどころか、労働生産性はあがると考えられる。一方、不要な人材を組織に滞留させ、労働生産性を下げる日本の従来型組織も明確になり、内部から自壊していくのではないだろうか。周知のとおり、リモートワークという行動様式から多様な行動様式が派生し、従来からのデジタルサービスも加速された。馴染み深いECの拡大、進化、専門化、クラウドに端を発し、クラウドソーシング、オンライン資産運用・保険相談、オンラインマッチング、オンライン飲み会、オンライン診療・ヘルスケア、オンライン教育、オンラインライブ、オンラインサロン、オンラインフィットネス、オンライン旅行、オンライン帰省等、これからも多様複雑化していくだろう。これらの複雑多様化する行動と可処分時間を獲得すべく「プラットフォーム」と自称他称する事業形態が増加し、栄枯盛衰が加速されているようにみえる。

プラットフォームの形態を目指す企業または事業が属する産業も多様化している。コミュニケーションネットワークのFacebook、Linked-in、・・・、ゲーミングのXbox、ソニープレーステーション、メディアのYouTube、から農業まで・・・・プラットフォームを形成しようとしている。iTunes、Amazon、Google、Facebookに代表されるプラットフォームビジネスは、コロナ前にもそのビジネスモデルの優位性が際立っていた。そして、コロナは、それらの栄枯盛衰サイクルも加速している。もちろん、大手が主催する場合、体力勝負で打ち手が繰り出されるが、そうでないプラットフォーマーには、神判が下るのが早い。企業分析する学者が追い付かないくらい早い。まるで、遺伝学でのショウジョウバエの実験のようですらある。マッチングサイトなんかも流行したが、特定の容姿への異性の集中、期待度の低下、AIによる管理による集中化の避止、更なる期待度の低下で、ユーザーの見切りも非常に速いケースが見られる。音声SNSも、主催者たるモデレーターが上から目線だとか、プロじゃないとか、他のプラットフォームとくらべると時間あたりのメリットが少ないとか言われて、当初の勢いを失っている。個人的には、有益な情報を提供する人が、ここでしか話さないことを情報提供してくれる機会が、ほぼ毎日あるので利用しているが、私の周囲の若い人は「オワコン」扱いだ。これらは、プラットフォームはユーザーの期待を上回らないと言えばそれまでだが、プラットフォームの原則が十分でないうちに、急激にユーザーを集めてしまったことに要因がある。プラットフォームは情報、サービス(製品)、通貨(価値)を、参加者(多様な立場があるのだが)で交換しあう仕組みだ。これらの失速するプラットフォームはこの仕組みに熟慮されていないまま大量に参加者を拡大し、問題が発生した場合の打ち手が打てない状況に陥っていり、ユーザーを失望させてしまっている。これは、熱狂の数日は成否がわからないが、若い人は早々に欠落を指摘していた。加速されたデジタル化で、ビジネスの成否が爆速で結果がでてしまう。事前に見抜くか、事前に見抜けない事象にはどのように情報収集するか、ということを常に考えないといけない時代になってしまった。

ただ、このようなことを考えると、コロナは未来を歪曲させて、企業が向かう方向性が大きく変わった可能性があると考えると人もいるかもしれない。3-5年先を「将来」と見据えていたらはそうかもしれない。3-5年将来の産業予測は、目先のイベントに受ける変動性が非常に高い。期間という点で、最も難しい予測と反応が要求されるともいえる。日本の多くの企業の「将来」を3-5年単位で「将来」としつつ、かつ4半期決算に追われるために、長期的な企業哲学のご都合解釈で社内意思決定は歪められる。勝手に最難関な課題に挑戦して、「挫折」と外からみられないように、官僚的組織は意思決定のお化粧に励む。そのような企業は、企業理念が弛緩し、Disciplineでなくなり、理念をどうとでも解釈できる無価値なものにする。しかし、10年後やもっと長期は予測して課題解決するというのはどうだろう。人口は減少するし、テクノロジーは指数関数的に進化するし、各国の大衆迎合主義による財政悪化が好転するとも思わない。10年後はだいたい、読者の方々の予測の範囲内だ。このような話をするとアマゾンとベソス氏を想起するだろうが、まさしくそうである。10年後を考えているか、企業理念の実践が10年を見据えた哲学があるかどうか。この目線で考える習慣をつけるとともに、信頼できる知人、情報源を確保することこそアフターコロナで成功する秘訣ではないだろうか。

この記事を書いた人

WMJ編集部

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